matsuo.

ツイッターより長い事を書きたい時に使ってます

ええやんけ

 

 「形、狂ってるよ」

 

美術大学へ行くために、実技の予備校に通っていた。この言葉は予備校を卒業する日まで先生から言われていた言葉だ。

 

かたち、と聞くと、結局ここに辿り着いてしまう。

大学受験も予備校時代もずっと昔。それなのに結局ここに引き戻されてしまうのは、今までの人生の中でなんとか頑張ったと言える経験がここにしかないからだ。前を向いているつもりで振り返ってしまう。情けない。せめて今がもっと楽しくなるように向き合いたい。

 

 

高校受験に失敗し、入学して半年でこのままでは卒業まで持たない、絶対リアイヤしてしまうと焦った私は学校以外の居場所を探した。絵を描く事が好きだったので、美術科の先生に美大受験用の予備校を教えて貰い、学校帰りは毎日そこへ通った。

 

一番最初に描いたのは、薪……だったような気がする。

台の上に一本の薪が置かれていて、それをただ鉛筆で描く。デッサンというものだ。出来栄えは散々で「なーんか不器用だなあ、自信なさそうな感じ(笑)」と先生に言われた気がする。私を受け持ってくれた先生は若い先生で、東京藝術大学を首席で卒業した仙人みたいな人だった。

 

それから色々なものを描くようになって、講評も大人数でするようになった。棚にずらっと並んだデッサンを見て私は震えた。まず、鉛筆の色の豊かさに驚いた。同じ鉛筆で描いているのになんて様々な黒があるんだろう。一色の中にこんなに幅があるなんて。上手、下手、そんな事よりとにかく自由だと思った。先輩達のデッサンは迫力があって堂々としている。絵を描く事にこんなに自信があって、生命力に満ちていて、なんてかっこいいのだろうと思った。

着彩(絵の具を使った課題)の時に茶色の椅子を指差して「これは俺に言わせて見れば黄色と紫のハーモニーなわけ」と先生は言う。信じられなかった。大きな大人が、真っ直ぐな瞳でそんな事を言う。確かに黄色と紫を混ぜれば茶色になるけど……そんな事わざわざ言うなんて恥ずかしいや……と思っていた(今思うと本当にすかしてて捻くれていて恥ずかしい)赤いリンゴを描く時、赤い絵の具を使う人はいなかった。みんなそれぞれに赤の感じ方があって、何処までも複雑に入り組んだ物の見方に出会い、果てのない宇宙みたいだと思った。途方もない事のように思えて絶望感もあった。世の中には絵を描く事に対してこんなに無邪気で堂々としていて、それでいてかっこいい人が沢山いる事を知った。

 

 

年に数回、東京の大学から先生がきて、講評をしてくれたり大学のお話を聞けたりする講習会があった。

高校3年の秋に受けた講習会で、私のデッサンを見て大学の先生は「うんうん、分かりますよ、そうですよね」と言いながら笑っていた。「よくモチーフ見て描かなきゃ、形に気をつけなきゃ、先生に言われた所見直さなきゃ、でも現役で受からなきゃ……とか、あなたの色んな声が聞こえてきていいですよとっても」みたいな事を言われた。身体がカーーーッと熱くなった。他の子はもっと褒められたり、希望の大学名を聞かれたり、技術的なアドバイスを貰ったりしているのに。でも全部図星だった。恥ずかしくて消えてしまいたかった。塾長と私を受け持ってくれていた先生は笑いながら頷いていた。

枚数と時間を重ね、細かな技術を覚えていくうちに、私は縮こまっていった。あれもこれも、あんな事まで教えて貰って、なのに手が追いつかない。今思えばがむしゃらに描いて描いて描きまくればどうにでもなったものを、悩んでいるフリとか、病んでいるフリをして目を背けた。やってもダメだったらどうしよう……ととにかく逃げ腰で、努力する事に怯えていた。でも傷ついた事だけは沢山アピールして、最悪だ。上手な人達に囲まれてやる気が削がれ、どんどん拗ねて、判断基準が上手いか下手かの二つしかなくなって心が擦り切れていく。自分の殻に閉じこもる。

絵が好きという事も描く事が楽しいという事も忘れて、ちゃっちゃと大学に入りたかった。いや、入れるようになんとかして貰いたかった。先生にどうにかして貰いたかった。

受験直前になってくると、鉛筆を削るだけで泣き出す人、デッサン中に暴れる人、抑えきれない感情が変な方向を向き出して、その空気に飲み込まれそうになる。先生達もピリピリしてる。ちょっとでも気の抜いた事をしようものなら雷が落ちる。何かにすがったり、向き合ったりしない私はそれすらも他人事のように感じていた。

毎日終電で帰って0時過ぎに夕飯を食べ、お風呂に入って気絶したように眠った。

 

 

『見る』『観察する』という事に対して私はとても鈍感で、考えようとも感じようともしなかった。デッサンは100見たら1描く、くらいのつもりでいいと言われたが、全然意味が分からなかった。分かっているけど、解っていない。

とにかく形を捉えるのが苦手で「形、狂ってるよ」「形、あってないよ」「だから形直せってば」と耳にタコが出来るくらい注意された。受験当日も「お前はとにかく形だけあわせてこい。描写出来なくても形があってれば後はなんとかなるだろうから」と言われたほどだった。

正確に形を捉えられるという事は、そのモチーフをきちんと観察できているという事だ。描く事は、見る見る見る、見る、見る見る見る、見る、描く、見る見る見る見る、見る、描く、見る、の繰り返しで、手を動かすよりも見る事の方が大切だ。

 

 

ふーふー言いながらも大学には合格した。

サークルでは文芸部に入った。筆記試験で小論文の課題があり、その対策を予備校でしていた時に何度か褒められた事を思い出し、何か作品をつくる時の幅が増えればと思い入部した。

(実際に予備校で小論文対策として添削して貰ったプリントが出てきた。何課題かやってはじめてまあまあいいじゃん的な事を言われてホッとした時のもの)

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(添削して貰った作文は沢山あるけれど、これが一番上になって保管してあったので、相当安心したというか自分の中で印象深かったんだと思う)

 

サークルには小説を書く人、文字を使ってインスタレーションをする人、コントの台本を書く人など様々だった。年に何回かアンソロジーのような本を発行し、そこには短い小説を何本か書いた。文字を紡いだり物語を書くのも楽しいと思った。それからは自分の学科の課題でも、文字や文章を使った作品をつくったりした。絵を描く事よりも文字を使って何かを表現したいという気持ちが強くなっていた。

 

 

それでもふとした時に、全力でやるべき時にやらなかったツケがまわってくる。バッターボックスに立たせて貰ったくせに、全力でバットを振らなかったツケがまわってくる。

心の底から楽しんだり、挑んだり、感動する感覚が分からないまま月日が流れ、大学卒業後、仕事をしていても、誰かと遊んでいる時も、心ここに在らずで目の前の事に集中出来なくなっていた。そのうちどんどん気力がなくなって、私は引きこもるようになってしまった。身体を頭でコントロールしようとして、いよいよ苦しくなってきた。仕事をやめて、何かに熱中する事が苦しくなって、趣味のお笑いライブに行く事も、読書や書く事からも遠ざかるようになった。どうやって楽しんだらいいか、好きになったらいいか、分からなくなってしまった。

時々友達と会っても、別れた後の疲労と虚無感の反動に耐えきれず、ほとんど家から出ない日が続いた。一日の半分以上を寝て過ごし、小さな鬱の中、このサロンの記事を見て堪らず飛び込んだ。自分とも向き合えない、人とも会えない、でもどうにかネットだけは見てる。絵を描く事が好きだったからもっと勉強したいと予備校に通い出した時と同じ気持ちでまた何かはじめてみたい。書く事を楽しみたい方歓迎しますの一言に勇気を貰って泣きべそかきながら飛び込んだ。

小野さんがアート・アンド・ブレインのワークショップの事を書かれていたが、似たような事を大学入学後一発目の課題で行った事を思い出した。見るという行為について自ら気がついた時、自分の存在にもっと近づいて、知ろう、愛そうという気持ちが芽生えた時の事を思い出し、胸がきゅうっと熱くなった。

手を動かそう。生活も仕事も趣味もちゃんとしたい。好きな事を好きなまま続けられるように向き合いたい。

 

 

 

この記事も、メモ帳におこした言葉から記憶を戻してつぎはぎして書いている。書くというかたちについて、もう一度見つめ直している。冷えて硬くなった頭をゆっくり動かしながら、気持ちと目線をほぐしている。見て、愛して、感動して、丁寧に生きたい。

 

 

 

 

 

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”書く私”を育てるクリエイティブ・ライティングスクール課題

お題「私のかたち」

 

■書いた感想

イメージを膨らませているうちに、受験時代の事を一度どこかで書いておかないと後々つっかえそうと思ったのでアクセルを踏むために書いた。今までこういう事は 「話した」ことはあったけど「書いた」ことはほぼなかった。記憶がボロボロな所もある。書きながらこの時期の事をきちんと「過去」にする事が出来た気がする。

普段パソコンでとるメモも今回は紙とペンを使って書いてみたりした。頭の中の整理整頓の仕方がパソコンの時と少し異なったので新鮮に感じられて良かった。

お題、期日があるとそれを守らなくちゃという気持ちが先走って、ペース配分が分からなくなってしまった。これからはデッサンをするその前段階のクロッキーを沢山積み重ねるような気持ちで書いていきたい。