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matsuo.

ツイッターより長い事を書きたい時に使ってます

デッサン力  

 

デッサンは何も絵を描くためだけに存在している技術ではない。

デッサン力があるという事は物事をきちんと正しく観察できるという事。モチーフからより多くの情報量を捉えられるという事。

 

こんな事受験時代に毎日毎日口すっぱく言われ続けてきただろうが、なんで今更になって言い出してんだよって感じなんだけど、デッサンの力は普通に生きていても重要な力になるってあたり前の事を今更感じているから。情けなさすぎてどうしようもない。受験って2文字が絡んでいたからとはいえ、デッサンの意味を分かるじゃなくて解っていたら、もっと学校生活とか楽だったろうに。

 ちょっとした事で傷ついたり、疲れたり、頭がこんがらがって泣きそうになった時、もっと正しく物事を見たいと思う。観察したいと思う。極端に客観視のたりない人に会った時、ふと自分もこんな風なんじゃないかと吐くくらい怯える。どうしようもない気持ち悪さは同族嫌悪からくるものなのか。何に対してズレを感じて何に対して怒りを覚えて何を遠ざけて何を正しく感じたいのか。よく分からない。大パニックをおこしそうになる。物事をよく観察しようとか正確な情報量を得ようとか、受験時代に言われてた時はさっぱり分からなかった。不真面目であったかもしれないけど、本当に分からなかった。デッサンはただ苦痛だった。

 

”伸びる人と伸びない人の違いは、究極、意識の問題です。意識さえ高かったら必ず技術は習得するでしょうし、品格ある生活を送るでしょう。でも、意識だけは教えることができないんです。これだけは人が変えてあげることはできないと思います”

 

これ五代目坂東玉三郎さんの言葉だけど、意識の意味が今なら少し分かる。意識だけは本当に誰からも教えて貰えない。でもある時ハッと深い眠りから覚めたように、ビリッとくる瞬間がある。何かに自発的に気がつけた時、泣きそうになる。何に気がつけないか分からない時が一番苦しい。

 

料理をする時、化粧をする時、服を選ぶ時、人とうまくいかない時、掃除をする時、食器を選ぶ時、テレビを見る時、ラジオを聴く時、文章を書く時、ライブを見る時、読書をする時、絵を見る時、SNSを徘徊する時。なんでもない生活の中にデッサン力が欲しくなる。100の情報量があるのに私はきっと5くらいしか情報を読み取れてない。こんなんじゃ楽しい事も楽しくないのは当然。悲観して頭痛引き起こすのもすこぶるダサい。今こうして文字打ってる瞬間も何言いたいのかさっぱり分かんないなって思うし。インプットもおろそかならアウトプットは尚更ぐちゃぐちゃですよ。

 

くしゃくしゃになった紙をまたゆっくり丁寧にのばしてアイロンかけて、その上から一つ一つ情報を読み取れる力が今の私にあるだろうか。もうアイロンすらかけられないかもしれない。でもジタバタしたい。血肉にしたい。私は普通に生きていきたい。物事に対する距離の取り方がずっとずっと下手くそで、結局同じような結末で壊してしまいそうになるんだけど今まさにそれででもう同じ事で壊れたくないんですよ。合わないならそれまでなのかもしれないけれど。絵も描けないし文も書けないし本も読めないしお喋りも出来ない。新しい事が取り込めなくて昔ばかりなぞっているんですよ。音楽とかラジオとか思い出とか。今がとりあえず一番最低。

 

りんごを描いてそれが普通にりんごに見える。この意味が解るだけで、ずっと楽に世界が見える。早くこのぐちゃぐちゃな1500字にも満たない日記を馬鹿じゃないのって削除する日がきて欲しい。納得する日がきて欲しい。